ことりのかけら

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「高校生の娘にピアスをOKするかどうかバトル」から2年

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娘が高校生の時、「ピアスの必要性についての口論〜ピアスあけたい症候群との戦い〜」という記事を書いた。

娘は、校則のほぼない高校に通っており、多くの生徒がピアスをあけていた。本人の高校生のうちにピアスをしたいという気持ちが高まっていて、それに反対する私、まあいいんじゃない?という父親をはじめとして、知人や親せきがそれぞれ賛成したり反対したりしていた。

高校生だった娘ひなは、大学生。

成人したら好きなようにしていいという意見には本人が納得しなかった。高校生のうちに開けたい、大学生になる前には(春休み)開けたい、と親子バトルを繰り返していた。 

父親は「いいんじゃない?」ともともと賛成派。私は、何かあったときが心配で反対。私自身は、肌が弱く金属アレルギーの気があるので肌に金属をつけることが好きではない。親子だからもしかしたら似たような状況になるかもしれないと思ったことも反対した理由の一つだった。

結局、高校3年でもない、20歳でもない、その真ん中の「19歳」で折り合いをつけることなり、「ピアスを開ける場所は、皮膚科」ということだけは守ってもらった。 

娘はピアスを付ける楽しみ、選ぶ(ショッピング)楽しみを満喫している。

この件に関して、周りの方々が意見や助言をしてくれた。

面白かったのは「この人は賛成だろうな」「この人はピアスなんかやめておきなさい、というだろうな」という予想に反して、人々が個人個人でさまざまな意見を持っていたことだ。

 

いつも真面目な意見をいうタイプの人が「いいじゃない!おしゃれしなよ」

おとなしいタイプのご婦人が「ひなちゃん!お父さんお母さんにばれないように、隠れてさっとあけちゃいなさいよ」

普段、娘の話をなんでもうんうんと聞いてくれる 方が「絶対だめ!ひなちゃん、お願いだからピアスなんてしないでね」

 

現在は、ピアス戦争の嵐は過ぎ去って、そんな時もあったなあ、と思い出している。

やはり私自身はピアスをこれからもしないだろうし、夫は「いいんじゃない?」と言い続けるのだろう。

今もどこかのご家庭でことり家であったようなピアス論争があるのかもしれないな、と思いつつ記事を書きました。

支援者の褒め言葉が辛かった〜発達障害者親の気持ち〜

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発達障害がメディアで特集を組まれたり、取りあげられたりすることが多くなった。

特集では、当事者の大変さや得意や不得意、上手くやっていくための方法などを紹介されていることが多い。保護者や家族など周りの人が当事者にどう対応したらよいのかという類の質問に専門家が答える場面もよく見る。

こういう番組をどううけとるかは、その時の自分の状態によるものがとても大きい。

励まされることもある一方、傷つき落ち込むこともある。

自分自身のことを振り返ってみると、専門家に相談する前、専門家の支援を受け始めた時、1年後、3年後、5年後、10年後……。

その時々で、感じることが違う。 

親になる前は、自分が当事者の親になるとは知らなかった。当事者支援の仕事をしていたから、知識があってよさそうだが、知っているのと自分で納得していることは全く次元の異なることなのだ。 

自分の子の発達がまわりの子と違う。上の子の時とも違う。助言が欲しくてサポートが欲しくて、私は専門機関に足を運んだ。

最初の頃は、本当にがむしゃらだった。専門書を読みあさる。ネットで情報を探す。専門家に相談する。仕入れた情報を参考にして知恵と忍耐を振り絞って子どもと向き合う。 このやり方でいいのだろうか。今日やったことは正解なのか。不安だった。

スパルタにはなりたくない、楽しく成長してほしい。

ぐんと伸びた時もあったし、変化がなくつらい日もあった。

先生たちは、こう言った。

「ことりママ、すばらしいですね。いいお母さんをしていますね。お子さんのことをいつも考えてたくさん勉強されてますね。いろいろ経験させていますね。」

応援している気持ちを伝えようとしてくださっている。でも、こういう毎日がずーっと続いて、(私の場合は)もうぐったり疲れてしまった。いつもいつもずっと頑張っていると、糸がプツンって切れてしまいそうになる。

ただボーッとしたい。なんの心配もない世界に行きたい。 

授業参観で自分の子どもをドキドキしないで眺めてみたい。

 

定型発達のお母さんでも、学業成績やスポーツ・芸術の成績などで、子どもの出来不出来親の点数をつけられていると感じるだろう。

凹凸発達の子どもの親の場合、採点される感覚はもっと多いのではないだろうか。

理由の1つは、関わる専門家の数が増えるから。

専門家の先生たちの言葉が、それが共感言葉であろうと誉め言葉であろうと、こちらの心が弱っていると特に心に重くのしかかってきてしまう気がする。

面と向かってコメントされる言葉。ほかの保護者のことが話題に上っているのを耳にする時もある。

「お母さん度採点」の言葉。

○○君のお母さんは、子ども対応に愛がありますね。

○○ちゃんのお母さんは、パニックの時ずっと笑顔で待っていた、すばらしい。

○○くんのお母さんは、専門的に勉強を始めたらしい。熱心ですね。

または、

○○くんのお母さんは、そのままの彼をすっかり受けれて愛している。なんて素晴らしい。

とりあえず、専門家や他人の前では、いいお母さんを演じなくては……という思いにとらわれて、演じてしまう。 どういう対応が専門家の人に受け入れられるかは、も経験で身に付く。

 

嘘の自分の姿に対するコメント。

「ことりママって、すごいですね。」「よく頑張ってきましたね。」

いえ、私は演じてるだけです。

 

確かに子どもは成長する。親だって少なくとも経験は積んでいく。親として子どもの成長が感じられて嬉しい時もあるけれど、足踏みしているように感じるときも多い。

そんな毎日の歩みに、点数をつけられていると感じることは辛い。

専門家の先生たちは、サポートしているつもりで、親の気持ちを理解しようというつもりでいろいろ話をしてくださるだろう。しかし、称賛や共感の子ど場でさえも、チクチクと心に刺る。知らなうちにできた擦り傷のように。

 

人と関わっていくのって本当に難しい。 親と専門家もそうですし、親同士、子ども同士、そして親子。 

 

成長の曲線は、らせん階段のように、ぐるぐると道草をしているように見えながら、ゆっくり上昇すると聞いた。 

誉め言葉や共感の言葉が時にチクリと刺さることも、らせん階段をのぼっていくうちに、少しずつ気にならなくなるといいのに。

 

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「グッド・ドクター」(自閉症スペクトラムの外科医のテレビドラマ)韓国版とアメリカ版で表現の違いはあるのか?~「治癒する」などについての疑問~

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2018年4月から、「グッド・ドクター 名医の条件」(アメリカドラマ)がWOWWOWで放送されるそうです。 アメリカでの評価もが高いそうなので観たいのですが、WOWWOWに加入できていないので観られないのが本当に残念です。

このドラマは、韓国の「グッドドクター」のアメリカ版リメイク。

オリジナルの韓国版は見ました。

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自閉症でサヴァン症候群のパク・シオンが外科医になる話です。 ドラマはとても興味深く楽しめました。

しかし、1つだけ気にかかったことがあるのです。自閉症のことを説明する部分です。自閉症を治癒するとか、寛解状態にあるとかいう表現がされていました。リハビリ中などという言葉も出てきたと記憶しています。

自閉症は脳の機能が多数派の人たちとは違います。「治癒させる」とか「寛解した」とかリハビリする対象とは違います。

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ここのところがテレビドラマとしてどうなのかな、しっかり調べてから制作したのかなと疑問が残ります。 しかし、この語句は翻訳したもの。 実際の韓国語でどのような単語が使われていたのかは確認できていません。もしかしたら、別の表現が使用されていたのかもしれません。

もし韓国語に詳しい方がおられたら是非教えてください。

 

今回WOWWOWで配信が始まるアメリカ版は、フレディ・ハイモア主演。彼が自閉症の外科医ショーン・マーフィー役を演じます。第一シーズンの放映が終了し、高評価を得ているということです。 「治癒」といったような表現はされていないのではないか?と勝手に想像しているのですが、実際どうなっているのでしょう。 早く見る機会が得られるといいなと思っています。

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