発達障害がメディアで特集を組まれたり、取りあげられたりすることが多くなった。
特集では、当事者の大変さや得意や不得意、上手くやっていくための方法などを紹介されていることが多い。保護者や家族など周りの人が当事者にどう対応したらよいのかという類の質問に専門家が答える場面もよく見る。
こういう番組をどううけとるかは、その時の自分の状態によるものがとても大きい。
励まされることもある一方、傷つき落ち込むこともある。
自分自身のことを振り返ってみると、専門家に相談する前、専門家の支援を受け始めた時、1年後、3年後、5年後、10年後……。
その時々で、感じることが違う。
親になる前は、自分が当事者の親になるとは知らなかった。当事者支援の仕事をしていたから、知識があってよさそうだが、知っているのと自分で納得していることは全く次元の異なることなのだ。
自分の子の発達がまわりの子と違う。上の子の時とも違う。助言が欲しくてサポートが欲しくて、私は専門機関に足を運んだ。
最初の頃は、本当にがむしゃらだった。専門書を読みあさる。ネットで情報を探す。専門家に相談する。仕入れた情報を参考にして知恵と忍耐を振り絞って子どもと向き合う。 このやり方でいいのだろうか。今日やったことは正解なのか。不安だった。
スパルタにはなりたくない、楽しく成長してほしい。
ぐんと伸びた時もあったし、変化がなくつらい日もあった。
先生たちは、こう言った。
「ことりママ、すばらしいですね。いいお母さんをしていますね。お子さんのことをいつも考えてたくさん勉強されてますね。いろいろ経験させていますね。」
応援している気持ちを伝えようとしてくださっている。でも、こういう毎日がずーっと続いて、(私の場合は)もうぐったり疲れてしまった。いつもいつもずっと頑張っていると、糸がプツンって切れてしまいそうになる。
ただボーッとしたい。なんの心配もない世界に行きたい。
授業参観で自分の子どもをドキドキしないで眺めてみたい。
定型発達のお母さんでも、学業成績やスポーツ・芸術の成績などで、子どもの出来不出来親の点数をつけられていると感じるだろう。
凹凸発達の子どもの親の場合、採点される感覚はもっと多いのではないだろうか。
理由の1つは、関わる専門家の数が増えるから。
専門家の先生たちの言葉が、それが共感言葉であろうと誉め言葉であろうと、こちらの心が弱っていると特に心に重くのしかかってきてしまう気がする。
面と向かってコメントされる言葉。ほかの保護者のことが話題に上っているのを耳にする時もある。
「お母さん度採点」の言葉。
・○○君のお母さんは、子ども対応に愛がありますね。
・○○ちゃんのお母さんは、パニックの時ずっと笑顔で待っていた、すばらしい。
・○○くんのお母さんは、専門的に勉強を始めたらしい。熱心ですね。
または、
・○○くんのお母さんは、そのままの彼をすっかり受けれて愛している。なんて素晴らしい。
とりあえず、専門家や他人の前では、いいお母さんを演じなくては……という思いにとらわれて、演じてしまう。 どういう対応が専門家の人に受け入れられるかは、も経験で身に付く。
嘘の自分の姿に対するコメント。
「ことりママって、すごいですね。」「よく頑張ってきましたね。」
いえ、私は演じてるだけです。
確かに子どもは成長する。親だって少なくとも経験は積んでいく。親として子どもの成長が感じられて嬉しい時もあるけれど、足踏みしているように感じるときも多い。
そんな毎日の歩みに、点数をつけられていると感じることは辛い。
専門家の先生たちは、サポートしているつもりで、親の気持ちを理解しようというつもりでいろいろ話をしてくださるだろう。しかし、称賛や共感の子ど場でさえも、チクチクと心に刺る。知らなうちにできた擦り傷のように。
人と関わっていくのって本当に難しい。 親と専門家もそうですし、親同士、子ども同士、そして親子。
成長の曲線は、らせん階段のように、ぐるぐると道草をしているように見えながら、ゆっくり上昇すると聞いた。
誉め言葉や共感の言葉が時にチクリと刺さることも、らせん階段をのぼっていくうちに、少しずつ気にならなくなるといいのに。