ことりのかけら

発見したこと気づいたことを発信中~帰国生・凸凹発達の教育情報も~

スマホ持参禁止の高校入試〜出願と試験当日〜

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1〜3月。何故、この寒い時期に受験日にするのか理解に苦しむ。

我が家にも、高校受験を迎える子どもがいる。

息子の中学校では高校への出願は、本人がすることになっているらしい。出願期間は数日間設けられているものの、行く日を自分で決めることはできず、全員同日に出願に出かけるらしい。直前に3年の生徒が集まり、先生からの注意事項を聞きそれぞれの高校へ向かうのだそうだ。

この方法にかなりの違和感があるが、そう決まっているので仕方がない。

 

ひとつ、心配なことがあった。

携帯電話の持参禁止。

出先で困っても、気軽に電話をかけて助けてもらうことはできない。

 

複数人で向かう場合は、途中で何かが起こったとしても対応しやすいが、我が子は同じ高校志望の同級生がいないため、一人で出願。

途中で、体調を崩したり、緊急事態が起こっても、普段の連絡方法がとれない。なにかあったら、周りの大人に助けを求めるしかない(ハードルが高い)。緊張している状態だと普段なら冷静に対処できることまで戸惑ってしまう可能性がある。発達障害だから。

 

携帯電話がないなら、学校や家庭に連絡する方法は、「公衆電話」しかない。

当日になる前に、自宅近くの「公衆電話」を使って練習をした。

携帯電話を許可してもらいたかったが、公衆電話の使い方を習得することは、価値があった。

 

当日は、「公衆電話」を使用することはなかった。

もっと早い時期に「公衆電話レッスン」を済ませておけばよかったなあ、と思っている。

 

※試験日当日は、自宅から直接向かうわけで、携帯・スマホを持って行くことはできます。しかし、我が子の学校では「もしもの場合のために、カンニング等疑われないように携帯・スマホはもっていかないこと」と言われたそうです。高校からの書類にはスマホ等の持ち込みに関する明記はありませんでした。

当日、試験が始まる前に試験官の先生が、「スマホ等の電源は切ってください」とアナウンスしたとのこと。ということは、持っていくことは大丈夫だった、、、ということになります。(持ち込みの可・不可は、高校によって変わるのかもしれませんので、事前に確認が必要だと思います。)

www.kotorino-kakera.com

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高校の同級生が通う大学の授業、娘が隣で受けてみた。

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娘のひなは、現在大学1年生。なんとか小さいころから憧れていた学校に入学することができました。 受験前には実際に大学のキャンパスを何度も見学。 「本当に行きたいか」確認し、受験しました。 

それでも、実際に入ってみると「こんなとこだったのか!」とか「こんなはずじゃなかった!」「聞いてないよ~」ということがでてくるようです。

高校の同級生は、ほとんどが◎◎大学に進学。(90%以上が同じ大学に進学する高校に通っていました。) 高校三年生の志望大学を決定するとき、娘は多くのクラスメイトにこう言われたそうです。

「え?□□大学? どこ、それ? ◎◎大学より、偏差値下だよ? 偏差値が低い大学に行きたいの?

友達は、□□大学という名前を聞くと、すぐさま偏差値の検索を始めたそうです。娘は当時、ため息交じりにそう報告していました。

娘の進学した□□大学は、課題が山ほどでて、遊びもアルバイトも思うようにできないと言われています。建学者を尊敬していること、卒業生に憧れる人がいること、その大学の△△コースに進みたいことなどの理由で決めました。しかし、そこに通って膨大な課題と格闘していると、「みんなと同じように◎◎大学に言っておけばよかったかな。」という気持ちになることもあるようでした。

 

この冬休み、高校の時の友達のクラスを聴講させてもらえることになり、娘はいくはずだったかもしれない◎◎大学の授業を受けてみたようです。

感想は、「みんな、やる気がないみたいだった。面白い授業していたのに聞いてない子が多かった。 学ぼうとしない学生が周りにいると、自分のやる気を出すのにエネルギーがいるから、大変そう。 私の□□大学では、みんなやる気満々だよ。質問もすごくするし、自分は世界にでて活躍する!とか、こんな仕事したい!とか1年生でも将来の準備してる。大学によって、本当に雰囲気が違うんだね。 □□大学がきつすぎるから、◎◎大学に行っておけばよかった、って思ったりしてたけど、やっぱり□□大学でがんばる。(大学を変えることなんか実際はできないのですが。)」

◎◎大学は、私たちの住む地域で名前を聞けば「おー」と言われる大学です。就職先もよいと言われています。

それでも、入ってから一生懸命勉強する雰囲気がないと、「夢」に向かって勉強したいと思っている学生にとってはつらいですね。 周りもやる気で切磋琢磨するほうが、やりがいもでてきますよね。

今は受験シーズン真っ最中。

寒さも厳しいし、気持ちの上での緊張もマックスだと思います。本当に気持ちがアップダウンして大変な時期ですが、大学受験進学先を選ぶときは自分に合ったところはどこなのか、考えて選択できるといいなと思います。 そして、栄養のあるものを食べて休むこともできますように。

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映画「くちびるに歌を」の中で「きょうだい児の気持ち」について感じたこと

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映画「くちびるに歌を」を観ました。2015年の邦画です。

中学校の合唱部と先生を中心とした物語。

青春映画だね、と思いながら鑑賞していたのですが、ある部分に引っかかってしまいました。 合唱部の部員が「15年後の自分に手紙を書く」という部分です。部員である桑原サトルも自分に宛てて手紙を書きます。 彼には障害を持った兄アキオがいます。障害児のきょうだいは、「きょうだい児」と呼ばれることがあります。サトルが自分の存在を考えるとき、自分が「きょうだい児」であることが根幹にるのです。彼はこんな手紙を書きました。

(映画「くちびるに歌を」より)

拝啓 15年後の自分へ
15年後の僕は兄のそばにいますか。
いや絶対いるでしょうね。
僕は兄に人一倍感謝しています。
だって、兄が自閉症じゃなかったら僕は生まれてこなかったのですから。
僕は、分かっています
将来兄だけが取りのこされたとき、1人だけでは生きていけないから両親は決意したんだと思います。自分たちが死んだ後に兄の世話をしてくれる弟か妹を作ろうと。
そして僕がこの世に生まれたのです。


もし兄が普通の子だったら、僕はこの世にいなかったでしょう。
僕は、将来に対する不安がありません
自分の存在している理由がはっきりしているから。
だけど、たまにほんのたまに兄がいなければ、そう思うことがあります。
兄を疎ましく思うことがあります。でもきっと僕はこれからもずっと兄のそばに寄り添うでしょう。

それが僕の生まれてきた意味なのですから。 

 両親の死後、兄の面倒を見るために自分が生まれた。そうでなかったら、自分は生まれてくることができなかったのだから、と兄に感謝します。 こんな風に考える15歳が実際に存在するのだろうか? 映画の中でこの手紙は「感動を呼ぶ」場面として挿入されているのでしょう。サトルは性格の良い可愛い男の子のように描かれていましたが、私の心はざわつきました。胸に重い何かを押し付けられて苦しい感じ。サトル、それでいいの? 本当に、本当にそう思っているの? 思いこまないと自分が進めないということなのかな、とも思いました。 

劇中、サトルが合唱部の練習で帰宅時間が遅くなる場面があります。サトルは、兄のお迎え担当。 兄はルーティーンで動きます。「いつも同じ」が大事。サトルが遅れた日、兄アキオは行方が分からなくなりました。(後で、発見される)

サトルがお迎えに遅れることは許されません。 合唱部の練習のために「帰りを遅くしてよいか」と母に尋ねます。しかし、「だれがアキオのお迎えをするの?」とよい答えをもらえません。 母は最終的に、「これまで何もねだったことのないサトルの初めての願い事」だから、と受け入れます。

 

15歳まで、何かをねだることもなかったというサトル。「障害」が見つかると周囲の意識は、「障害を持つきょうだい」に向かいがちです。 「きょうだい児」は、聞き分けの良い「良い子」になりすぎたり、逆に反発したりすることがあるといいます。 障害の程度や困り具合が深いほど、「きょうだい」にふりかかる負担は大きくなるのかもしれません。 サトルに気持ちを寄せる時、彼には我慢ばかりしないでほしい。でも、サトルの本人からすれば、「そんなのはきれいごと、自分には現実がある」ということなのでしょうか。 それでも、それでも、どうしてでしょう、どうか我慢ばかりしないでほしい!と思ってしまいます。 

 

私にとっては、サトルのこと、アキオのことは、決してよその家庭の話ではありません。 療育や学校の事、習い事や将来のこと、やはり心配事は凹凸をもった子どもの方に偏る傾向があります。「いつも〇〇(弟)ばかり!」は、我が家でもよく出ます。 子どもたちだけになった時、きょうだいの一人だけに負担がかかるようなことにはなってほしくないと切に思います。 それぞれが、自分の決めた道を納得して歩んでいてほしいと思います。 精神的にも経済的ににも自立して幸せを感じながら生活してほしいと思います。 この時代、それが簡単ではないのがつらいところです。 それでも、だからこそ道を探る日々が続いています。みなさん、そうやって生きているのではないかと思います。

この映画をみて、「きょうだい児」のいない世界に住んでいるかたは、どう感じたのだろうか? 「きょうだい児」を知っている人、「きょうだい児」の親、自身が「きょうだい児」の人は、どう感じられたのでしょうか。

映画の中で、(また、原作の中で)サトルにこのような手紙を書かせた意味は何だったのだろうか。 もやもやしながら、考えています。

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